2016.05.23

街道トラッカーズ 東海道(2/4)

文-青木雄介・写真-関根虎洸

今日は東へ、明日は西へ。江戸の時代から日本中に張り巡らされた街道を、今日もトラックは疾走している。そんなリアルな街道を、漂泊するトラッカーの魂で捉え、浮き彫りにしていく旅日記。それが街道トラッカーズ。



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東海道 箱根編(川崎→平塚)

東海道 箱根編(川崎→平塚)


東海道と甲州街道の今昔物語


 俺たちが乗った大型ダンプはやがて多摩川を越え、川崎へ入っていった。
 
 かつて川崎は、川崎大師の門前町として栄えた。俺は現在川崎に住んでいるが、毎年優勝を祈願しているはずの地元サッカーチームが、これまで一度も優勝したことがないので、大師様の霊験はあまり信用していない。だから、大師様には寄らずに川崎を抜けて、鶴見川を越え、横浜に入る。川崎から横浜へと続く道は、緩やかなカーブと起伏の他は一直線。潔くて気分が良い。

 5速、6速で大型クルーズ。排気ブレーキ(トラックならではの補助ブレーキ)をビシビシ言わせながら快調なドライブは続く。排気ブレーキをかけるタイミングと鳴らし方は、トラッカーによって様々ではあるが、上手いトラッカーの横に乗ると、その音に聞き惚れてしまう。
 初心者はたいがい、かけっ放しか、かけていないかのどちらかなので、加速時にも無駄なブレーキをかけたり音も不快なのだが、ベテランになるとシフト操作の所作と共に、細かく機能させていて無駄がない。そして、トラックに排気ブレーキが無ければ、トラックの魅力は半減してしまうだろう。排気ブレーキの魅力というのは、トラックの排気量の大きさそのもの。ギターの形状と音の関係みたいに、とても根源的なのだ。

平塚の松林

 
 江戸の時代、西へ向かう旅人は東海道か甲州街道を使うのが普通だった。大きな関所があって、川の河口付近を通ることが多い東海道は、川が増水すると渡れずに足止めを食らう、“川止め”というケースも多々あったという。それを嫌い、関所が少なく、山道ばかりでも“川止め”の恐れがほとんどない甲州街道を使う旅人もまた多かった。

 現代の飛脚であるトラッカーも事情は同じ。東海道の東名と、甲州街道の中央道と、西へ向かう2本の街道は高速道路に置き換えられる。東名高速は東京料金所まで340キロ、対する中央道は、名古屋の小牧から東京・高井戸ICまで344キロと、距離にほとんど差はない。東名が集中工事をすれば中央に流れるし、その逆もしかりだ。ただし、トラックにとって東名と中央道との4キロ差はその響き以上に大きい。実際、カーブは多いものの中央道は交通量も少ないし走りやすい。それに対して東名は、起伏こそ少ないが、交通量が多く、思い通りに走れている感じがしない。

旧相模川橋脚


 トラックのハンドルを握っていた頃の話になるが、大阪の岸和田から急ぎ荷の小口便を積んで、埼玉降ろしの傭車仕事(下請け)をやった時に、一度だけ中央道を使ったことがあった。第二東名が開通する10年以上も前の話だ。走り慣れた東名だったが、思いつきで、気分転換に別ルートを行ってみようと思った訳だ。路線便なので、渋滞や事故でもない限り、ルートを外れるのは良しとされない。それもあって途中、小牧を最後に報告入れずに中央道を走って行った。休憩を取ることもなく、順調に高井戸ICを抜け、首都高を経由して卸先の川口へ到着した。着くと、卸先のデポ長が不機嫌である。


「青木さん、寝すぎやで」


 はあ?と、どういうことか聞いてみたところ、同じ時刻に向こうを出発したトラックはとっくに現着し、荷物も降ろし終えてるという。それはおかしいと俺は必死に弁解した。帰り荷の大阪小口便は全線高速の、いわゆる美味しい仕事だったからだ。外される訳にはいかない。そこで、しぶしぶ中央道を使ったことを告白してみた。


「それやそれや。なんでやねん。センター(中央道の通称)なんか使うたらアカンがな。」


 元運転手で、大阪から単身赴任しているデポ長は呆れた顔をしていた。深夜、同じ時間に名古屋の小牧から東京まで走ったとして、中央道と東名では必ず30分の差がつくのだ。要は、中央道は起伏が多い分、トラックは登りで、知らず知らずに減速してしまうということだった。

ベタ走りと俺だけの日本地図

 
 東海道の西へ向かう陽気な気分は、国道15号よりも国道1号の方が断然強い。鶴見を越えて、いつのまにか横浜に入る。しばらくすると、右と左で1号は分岐する。左は横浜市内方面、右は保土ヶ谷方面だ。

神奈川区(国道1号が二股に別かれる)

 
 情けない話だが、俺はこの煩雑極まりない横浜の国道1号の成り立ちをすっかり忘れていた。“東海道と言えば保土ヶ谷”そんな安易な知識で右へ行ってしまったのだ。そして、そのまま吸い込まれるように横浜新道に乗ってしまった。
 腹の立つ話だが、これも国道1号と表記されているのである。そのまま流されるように横浜新道を走る。このまま茅ヶ崎に行ったのでは、保土ヶ谷、戸塚という旧街道を走ったことにはならないじゃないか。関根さんが、名残惜しそうに「戸塚の一里塚を撮りたかった。」とつぶやく。戻ろう戻ろう、どうってことはない。
 
 俺たちは川上で下道(したみち)に降りると、東戸塚の駅前を通りつつ、引き返した。そこから今井まで走って、通勤で混んでいる環状二号線へ。再び保土ヶ谷で降りたが、はて、国道1号はいずこへ?
 
 正直に告白するが、昔付き合っていた彼女がこの近辺に住んでいて、懐かしさで胸が一杯になっていたのである。毎晩のように車で来ていたはずのこの場所は、国道1号というルートとして思い出そうとすると、全く思い出せなくなるのだった。「確か、保土ヶ谷の駅ってこっちだったけ…」などと見当をつけて走り出すが、思い出が走馬灯のように駆け巡り、正確な判断をさせてくれない。容易にUターンなど出来ない大型だから、ますます焦る。

 散々迷ったあげく、相模原に向かい出したところを、関根さんがナビアプリでルートを見つけ出してくれた。保土ヶ谷バイパスで戻りかけて、うっすら記憶が蘇ってきた。

「横浜新道過ぎたら、確か一国に降りられたはず。」

 大黒埠頭で大型の陸送をやっている時、移動の高速代は自分持ちだったので、とにかく高速を使わず効率的に下を走るのはお手のものだった。しかし、それも20年前の記憶。横浜の分岐を忘れていたのと同様、記憶はあやふやだった。まかり間違って、ぼったくりで悪名高い横浜横須賀道路に乗ってしまったら、もはや街道旅どころではない。
 怒り狂った関根さんに、三崎漁港でサンドバックにされる自分を想像して、ぞっとする。祈る気持ちで横浜新道の分岐をパスして標識をみると、果たして国道1号への合流の案内が出てきた。

「安堵。」

 イメージ通りの下り口。20年前に散々っぱら使った旧街道・一国の下道が現れた。

平塚八幡宮

 
 ところで、トラッカーには、上(高速)が好きか下(一般道)が好きか、という永遠の二者択一がある。ベテランほど答えは決まっていて「上に決まってるじゃねーか」となるのだが、乗りたての新人ほど下を走りたがる。自分もそうだったのだが、現在、思い返してみるに、あのベタ走り(一般道を走ること)で自分の中に自らの日本地図を作ろうとしていたのだ。
 自分で走って、見て感じたキャビンからの風景は全部、血肉化していく。季節や天候で、街道はその表情を変える。時間が経てば、街並みも変わっていく。トラッカーは街道においては、リアルタイムナビゲーションみたいに、全身でそれを記憶しているのだ。
 そうやって、目と肌と匂いで街道を記憶し、地図を拡げていく。これが乗りたてだと楽しくて仕方ないのだ。散々、ベタ走りで街道という街道を走りまくっているベテランはともかく、できれば内勤の仕事に就きたいと考えている職業運転手にはそれがない。楽な道を行こうと、すぐ高速に乗ろうとする。無論、事故の危険性や時間の短縮を考えれば、上で行くのに異論はない。だが、そればかりではトラッカーではないし、尊敬もされない。トラッカーは、自分の中の日本地図で勝負するものだし、そうして初めて他のトラッカーと会話できるのだ。


 そんな訳で、俺の20年前の日本地図もようやく目覚め始めた。点の記憶が、街道の線となって、当時往来していた国道1号と重なった。そして、述懐している内に、戸塚の一里塚は通り過ぎていたのだった。

平塚の海岸線




◇企画協力:株式会社ヨシノ自動車






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