2016.05.16

街道トラッカーズ 東海道(1/4)

文-青木雄介・写真-関根虎洸

今日は東へ、明日は西へ。江戸の時代から日本中に張り巡らされた街道を、今日もトラックは疾走している。そんなリアルな街道を、漂泊するトラッカーの魂で捉え、浮き彫りにしていく旅日記。それが街道トラッカーズ。


東海道 箱根編1(日本橋→川崎)

全ての道は日本橋に通ずる

 
 日本橋は五街道の起点だ。五街道とは、京都三条まで続く“東海道”、日光東照宮へと続く“日光街道”、その先の“奥州街道”、草津、木曽を経由し京都三条へといたる“中山道”、八王子、大月から下諏訪で中山道と合流する“甲州街道”の五つを指す。ここを起点にして、日本全国の道々は全部つながっている。
 だからといって、“日本橋”という言葉がトラッカーを感傷的にさせるかというと、そうでもない。ほとんどのトラッカーは一生ここを通ることもなく、通ったとしても、何も意識しないで通り過ぎる。首都高と環状線が整備された現在、わざわざここを通る理由なんてないのだ。


 いすゞの大型ダンプを路肩に寄せて、ハンドルの上に足を乗せながら、カメラマンの関根さんを待つ。
 このポジションはだらしなく見えるが、長くトラックに乗る時なんかは、大事な足休めだ。この姿勢で煙草を吸ったり、居眠りしたり、漫画を読んだり、スマホを見たり。トラッカーにとっては運転から解放される至福の刻。そうしてまどろんでいるうちに、ほどなくして関根さんから着信があった。

 
 午前6時、トラックを日本橋へと進める。

日本橋


 首都高の下、暗がりにある日本橋にかつての賑わいは想像も出来ない。橋の欄干の龍のモニュメントも西欧風でトラッカーには似つかわしくない。

「そこは、北斎とか広重の昇り竜だろ。」

 そんな独り言をつぶやきながらも、気分は高揚していた。ここから日本全国どこへでも行けるのだ。これまで走ってきた街道という街道、国道に高速道路、田舎の通学路まで全部ここにつながっている。道は人生そのものだ。道を切り離して、人は生きることは出来ない。
 
 お江戸、日本橋、七つ立ちっと。

日本橋道標


―――俺はかつて、長距離の運転手をしていた。深夜のルート配送から、大黒埠頭へトラックを運び入れる陸送員、そして大型トレーラーと、延べ5年間ほどハンドルを握っていたのだ。訳あって稼業から足は洗ったが、その5年間のことはずっと胸にあった。“漂泊の思い止まず”なんて言えば、格好よく聞こえるが、実際そうなのかもしれない。
 俺はトラック稼業を心底愛していた。気の良い仲間たちと交信しながら、ひたすら日本の津々浦々を走っていると、自分は過去から切り離された存在のように感じてくる。あの頃が一番、生きてるって感じがしていた。


 トラックを離れて携わったのは編集の仕事。この前、雑誌の撮影で一緒になったことのあるカメラマン、関根虎洸さんから連絡をもらい、久々に会った。
 関根さんは、俺が元運転手という経歴に昔から興味があったという。当の関根さんは元ボクサーで、現在はカメラマンのかたわら、ノンフィクションの作家でもある。
 そして、彼がライフワークで、昔の街道筋の旅籠や旧赤線、遊郭を取材しているというのを聞いて、俺も興味を持った。というのも、いわゆる街道筋の独特の雰囲気は経験上、歴史的な建造物に色濃く反映されていたりするものなのだ。
 
 
 あとは割愛するが、日本の街道をトラックで巡ろうという話になった。かつて飛脚や雲助が走った街道筋を走るのは、トラックしかないじゃないか、と。最高の思いつきだった。

行くぜ。“男の花道”国道1号線

 
 関根さんを乗せて、国道1号線を西へと向かう。ところで、トラッカーは国道1号を、“国一(こくいち)”や“一国(いちこく)”と呼ぶ。トラック野郎世代の、昔気質のトラッカーならば、“男の花道”と呼んでいたかもしれない。
 これは、昭和十六年に公開された、長谷川一夫主演の映画のタイトルから来ているらしい。江戸時代の東海道を舞台にした男の友情物語だが、実際この言葉は、デコトラの行灯でもよく見る、トラッカーの決まり文句なのだ。映画もリメイクされて、現在では歌舞伎の演目にもなっている。

 この“花道”という言葉は、妙にトラッカー魂を高揚させる。
「それじゃ、こっちは男の花道、行かせてもらいますわ。」
こんな風に言われると、幾分トラッカーの誇りがくすぐられる。

 そんな男の花道を行くべく、勢い勇んで発車したものの、いきなり道を間違えてしまい、大手町に向かうところを京橋へ行ってしまった。仕方ないので、そのまま丸の内経由で皇居へ向かう。

 トラックはいすゞのギガ。380馬力の9,800CC。10トン車で10リットルを切る排気量は、画期的に少ない排気量と言える。ダウンサイズの世界的な波は、トラックにもきてるってところだ。俺が運転していた頃は、倍の20リッターなんか当たり前だったから。

 俺は当時、いわゆる首ふり(トレーラーの意)に乗っていたので、大型のキャビンに乗ると、肩で調子を取る。たいがいのトラッカーは無意識にやっていることなのだが、バンパー角の死角は、ハンドルをそのままイメージして、その軌道をなぞるように切る。さらに、首ふりであれば後から付いてくるトレーラーシャーシの肩を、自分の肩が出るイメージで重ねる。常にハンドル操作より遅れて前へ出てくる自分の肩をイメージすれば、トレーラーの肩の存在を忘れないでいられるものだ。

「肩は大丈夫か?ちゃんとスルーしたか?」

 俺が牽いていたトレーラーシャーシは、肩が思い切り突き出てくる特殊車両だったので、肩はすごく気を使うところだった。もちろん、今乗っているのはダンプだから、その必要はないが、もう染みついているし、それでいいと思っている。ここが戦場ならば、ミサイルが追尾してきてるかもしれないしって。そんな訳ないか。

 ハンドルを切りながら、肩を前の空間に入れる。その肩越しにあるはずのないトレーラーの肩を探してミラーを見る。クラッチをつなぎながらハンドルを戻し、アクセルを踏んで加速していく。おもいきり上まで回してやると、ギガの直6ターボは全身から闘気をみなぎらせ、前へ進もうとして大音声をあげる。そして、ガツっとシフトを上げると、エアクラッチがピシッと音を立てる。乗用車に較べると、しなやかさのかけらもないが、とことんタフでまっすぐ。それがトラックなのだ。

東京とトラッカー:街道と境界

東麻布

 
 東京タワーのある麻布台から、三田を右に巻いて一路、品川へ。この辺から、やっと街道らしくなってくる。東海道は品川が有名だが、実際に品川を走っているのは国道15号で、国道1号ではない。かつては、品川に宿場町があり、そこ一帯は大いに栄えていて、今も面影を残す場所があるのだと、関根さんが言う。
 
 トラッカーの感覚からすると、品川は国道15号と山手通りが交わる交点だ。国道15号を境に横浜まで、海側の臨海工業地帯と内陸側のビル街または住宅地に分けられている。周知の通り、山手通りを境に、内と外とは違っているが、トラッカーからすると、内も外も関係のない話である。
 ただ今も昔も、首都の一番奥の内周路で、下道(したみち)を走るのであれば、ここから先は案内してくれる連れでもいない限り、トラックでは誰もが進んでは入りたがらない。使うとしても、せいぜい明治通りや昭和通りぐらいまでだろうか。
 道が狭く、渋滞しているし、しかも信号が多いからというのが、もっともな理由なのだが、そもそも都内の風景にトラックが似合わないからだと個人的には思っている。
 山手通りから内に入ると、キャビンの中と外は隔絶されているように感じる。文字通り、住む世界が違うのだ。


 五反田のガードを抜けて、山手通りを超えると胸が軽くなった。フロントガラスに拡がる世界はトラッカーの世界。道で起こる事は、俯瞰で全て見えていて、道へのアクションのほとんどはリアクションであり、早めの事前行動。
 流れには乗るが、急ぐことはないし、先が詰まっていれば、流れの早い車線へ移る。乗用車には見えていない先の先も見えている。大きなミラーで車体を感じているから、数センチ単位で幅寄せだって出来る。トラッカーはトラックを無暗に走らせたりはしない。道の流れを作り、それに乗っかるのだ。

 

 あとは道一本。東海道こと国道1号は、箱根を超え、静岡を抜け、名古屋を抜け、京都へと続く。西へと続く陽気な道だ。

 かつての東海道は、お伊勢参りに行く旅人たちが、通行手形を持って何万人と往来していたという。一生に一度行けるかどうかのお伊勢参り。家財を売り払う者も少なくなかったし、遺書をしたためて行くのが習わしだったという。
 とはいえ実際、東海道が通っていたのは、鈴が森や六郷を通っていく国道15号で、本当のところ、国道1号は並行して走っている。
 これにもう一本、国道15号よりもさらに海沿いに並行して、品川から横浜までを産業道路という道が走っている。トラッカーが主に使うのは、国道15号か産業道路だ。産業道路は有明、大黒、本牧あたりをつなぐのに格好の道路だからであり、国道15号も埠頭へのアクセスは悪くない。
 その点からすると、国道1号は地域の幹線道路として機能しているため、乗用車が多いうえに信号が多く、ローカルルールで局所的に渋滞する箇所がいくつかある。


 だが走り出すと、予想していた渋滞は全く無かった。上りも交通量は多いものの、渋滞している箇所はわずかだった。

大田区馬込




◇企画協力:株式会社ヨシノ自動車






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